2014年9月13日土曜日

大福帳を改訂しました!

2013年度の前期と後期で使った「大福帳」を改訂することにしました。「大福帳」に関して、詳しくはこちらの記事で述べていますが、2014年度もブリッジ・イングリッシュb という「英語の音とリズム」の練習を集中的に行う科目で利用します。

(昨年度までと科目名が変わっていますが、それについては触れないのが大人のマナーってやつです。笑。)

今年度は緑系の色にしてみましたが、昨年度同様、デザインも相当考えました。2014年9月8日に改訂作業をいったん完了したのですが、その後も微調整をしたい箇所が見つかりました。公開ファイル名はそのままで、上書きする形で更新していますので、下記のリンクにあるものが最新版です。

そして、とあるタイミングで「えい、やあ!」と200枚、一気に印刷してしまいましたので今年度の改訂は終了です。

受講生の予想人数は140名程度でしょうか。来年度はまた改訂したくなるでしょうから相当数が余ってしまうと思いますが、どうしても学年・学生番号で4色に分けたかったのでこのようにしました。(どのように分けるかは第1回の授業当日に考えます。)

データはExcel版はこちら、PDF版はこちらに置いております。改変等も自由になさって下さい。


今年度は大王製紙の色上質紙、特厚口にしました。昨年度はもう少し分厚い「最厚口」でしたが、どっちが良いか試してみます。

今年度の改訂の目玉は以下の4つです。

1. 今日の「やる気」メーター:授業開始時と授業終了時の他に20〜30分に1回ぐらい(授業中に5〜6回程度)の割合で「やる気」の動きをチェックしてもらいます。初めての試みでどうなるか分からないのですが、運用次第では何らかの参考になると思います。

2. 質問項目の再区分:これまでは6つに分けていた学生記入欄の質問を7つに再区分しました。「次の①~⑦を番号に続けて書いて下さい。複数書いても構いません。①(指示した週のみ)週替わりミニアンケートへの回答(設問自体は記入不要。授業後に授業記録ブログに載せます。) ②今、気付いたことを時刻を添えて書く ③覚えておきたい板書事項 ④授業関連で自分で調べたこと・友達と議論したこと ⑤授業関連でもっと深く知りたいこと ⑥オリジナル例文・練習用素材 ⑦意見・その他」としています。(このうち②は2014年3月に京都大学で開催された「第20回大学教育研究フォーラム」で聴いた鈴木克明先生のアイデアにインスピレーションを頂きました。1.の「やる気」メーターも似たようなものですが。)

3. 相互評価欄の削除:この欄は昨年度前半は上手く使えていたのですが、後半になってくると使い方に困る学生が出てきたようで、削除することにしました。毎回同じチェック項目があることに飽きる学生がいたのかもしれません。(今日の「やる気」メーターで同じようなことにならなければ良いのですが…)

4. 点数欄を追加:表面と裏面にそれぞれ私が合計点を記入する欄を設けました。このクラスでは大福帳だけで成績の45点がつくのですが、表面の7回分の記載で21点、裏面の8回分の記載で24点がつきます。(これは必ずしも授業1回を3点で評価するという意味ではありません。)

さて、どういうことになりますやら。まあ、かなり大変な作業になると思います(笑)

この大福帳を使ってみての感想なども、この授業のページに時々何か書くかもしれません。

2014年9月9日火曜日

私の闘病記録:手術後2ヶ月を経過して

2014年7月9日に脳腫瘍の手術を受けてから本日9月9日で丸2ヶ月が経過しました。記念というほどにはまだ回復しきっているような気がしませんが、思いつくままに書き留めてみましょう。

全てが始まったのは今から遡ること5ヶ月と2日前、2014年4月7日(月)2限の授業中のことでした。

まさかこんなことが自分の身に降りかかるなんて。

2014年度前期の月曜日の午前中は1年次の受信英語Ⅰという授業で、入学者を4クラス分割しているうちの2クラスを1限と2限に同一内容で教えていました。残りの2クラスは同僚のI先生が担当です。そして4月7日は1回目の授業で、しかも今年は新しいテキスト。昨年・一昨年は同じテキストを使っていたので、新しいテキストを使う年にはそれなりに準備も必要で、授業する側としてもそれなりに緊張もするわけです。

1限のクラスはそれなりに順調にいったと思います。続く2限のクラス。若干前半でもたついてしまったこともあり、焦り気味で後半飛ばしていたのは覚えています。そして授業が終わる15分前。時計を見て残り15分あるから、これをやろう、と決めたところまでは記憶があります。ところが次の瞬間、教室で突然倒れてしまったんです。

学生らもさぞかし驚いたでしょうね。初回の授業で突然、授業担当者が教室で倒れるなんて。幸いなことに今年から基礎ゼミナールを担当しており、このクラスにも自分のゼミ学生がいたので、全くの初対面という状況ではありませんでした。後から聞いた話ですが、学生のうちの何人かも助けてくれたとのこと。有り難いことです。

気がついたら救急車の中で、喋ろうにも「わわわわわ…わわわわわ…」としか言えなかったのを覚えています。症状としては「てんかん」の発作だったようです。

救急車に同乗して下さったのは教務課の顔なじみの職員さんでした。突然のことでしたので記憶も曖昧ですが、なぜか「3限は休講でお願いします…」とか口走っていたのは鮮明に覚えています。月曜日は今年は3コマ入っていて、1限・2限と3限は違う授業だったのです。なので3限は初回から休講で始まってしまいました。

結局、職場からもさほど遠くない大阪市内の病院に5日間、検査入院となりました。診断は脳腫瘍と症候性てんかん。最初の入院の日からずっと投薬治療(けいれん発作を抑える「テグレトール200mg」を朝晩1錠ずつ服用)が続いています。部位が部位だけに周囲の方々にはかなり心配をかけてしまいましたが、当の本人は元々好奇心旺盛で楽天的な性格なので、あまり気にしていませんでした。

(しかしその好奇心も手術後はなかなか取り戻せず、言葉の回復にも時間がかかったので、本当に復帰できるのだろうか?と不安な日々を過ごすことになりました。ちなみに今は好奇心も元通りです。念のため。)

職場では大騒ぎだったようです。いろんな人に迷惑をかけてしまいました。特に同僚のI先生には3回もお見舞いに来てもらい感謝しています。でも、そんなことよりも先のことが見えない中での代講(合同授業)措置を組んでもらう対応で相当苦労されたと思います。

翌週月曜日、4月14日の1・2限の授業は合同開講、3限は代講ということにしてもらい、阪大病院の脳神経外科に紹介状を書いてもらって初診を外来受診してきました。

授業には翌日、4月15日から復帰しました。学生たちも驚いていたようですが、体調的には全く問題がなく、こんな状態で授業できない方が病気になりそうでした。

(いかにもワーカホリックですね…こんなことが積もり積もって突然、発症したのでしょう…。今になって思うのですが、授業中の発症で本当によかった。不謹慎な話ですが、可能性としては海外出張中とかも有り得た話です。ちょうど発症のしばらく前には韓国へ家族旅行していましたし。)

出勤してみるといろいろスケジュールが組み直されていました。結果的には良かったのですが、カリキュラム上、変則的な組み方をしてしまったのが裏目に出てしまい、TOEIC対策クラスを大人数でやることになってしまいました。そして入院日程が決まるまでは2名の教員が教室に入るという解決法を編み出してもらい、そのうち1コマを自分が主導で、もう1コマを相方のH先生が主導し、自分はそのサポートに入るという方法で進めることになりました。

病状を詳細に調べるには「脳11C-メチオニンPET検査」(11は上添字)が必要とのことで、4月22日(火)に「インテリジェント医療センター」というカッコいい名前の病院組織で受けてきました。自由診療分な検査だけあって勤務先までの送迎つきだったけど、その割には痛くも痒くもうるさくもない、有り難みが全くない検査でした。

自分自身の問題としては「補講パズル」「合同開講パズル」をどうするかが最大の問題でした。最初に言われていた入院日は7月4日だったので、それまでに各科目の「補講」と「合同開講」の依頼をどのようにするかという段取りが必要だったのです。何とか解決したのですが、いろいろ大変でした。

それと、夜9時〜10時ぐらいには猛烈に眠くなるという症状にもほとほと困りました。服薬開始前は午前1時ぐらいまで起きている日が多かったので、1週間トータルで考えると週に20時間ぐらいは失ってしまっているような気がします。最近でこそ若干の改善傾向が見られていますが、それでもさほど大きくは変わりません。服薬治療によって失った時間は400時間ぐらいになるかもしれません。もっとも、これまでのワーカホリックで前払いしていた分を取り戻していると考えれば、さほど腹も立ちませんけど。

さて、時々外来受診が入る他は何ら問題なく、入院までは元気に過ごせていました。(例外として途中、5月30日〜6月1日に救急搬送された上に1泊2日の入院がありましたが、これについては今でも無関係だったと思っています。妻に言わせるとそうではなかったとのことですが…。)

後に入院日は7月7日に決まりました。手術日が7月9日で決まっていたので、直前の検査もいろいろ詰めていただき、とても助かりました。よく覚えているのは手術前日の言語聴覚士さんの面談ですが、絵を見て答える問題で「ふすま」の絵を見てうっかり「障子」と答える痛恨のミスが1つ、そして2桁の筆算の引き算の繰り下がりを1問間違えてしまったのが残念でなりません。しかし、この言語聴覚士さんも言語学出身の人と聞き、さらに語用論が好きと聞いてちょっと親近感を覚えました。(手術後に再開されたこの面談が嫌で嫌でどうしようもなくなるのですが、それとこれとは別の話です。)

いよいよ手術の日となりました。直前まで全く怖くなることもなく好奇心も旺盛のままで、手術室に入って麻酔されるまでの様子もいろいろ覚えています。

気がついたら回復室に入れられていました。12時間にも及ぶ大手術だったそうです。付き添ってくれた家族も途中で心配になったそうです。

手術が終わった日の夜から明け方にかけて「けいれん発作」を3回も起こしてしまいました。主治医の先生は長時間の手術でお疲れのところを呼び出され、さぞかし迷惑だったのでは…と今でも思っています。でも、こればっかりは「本人の意思で起こそうと思って起こした発作」ではないので、どうしようもありません。おぼろげな記憶の中ですが、つらそうな声で「おはようございます」と挨拶された明け方の寝癖姿の主治医の先生を覚えています。

退院までの日は不自由の連続で、苦痛そのものでした。

7月12日から7月16日までの日記が残っています。

7月12日の日記はひどいもので、字が躍っています。字を書くにも相当苦労していたようです。読んでみて意味の分からない部分こそありませんが、なんでこの言葉を選んで書いたのか、さっぱりわかりません。なぜこの言葉を選んで書いたのか、当日の自分に対して小一時間問い詰めたい気分です。

7月13日の日記では「ことばがでにくい」と5回続けて書いています。話し言葉の産出に苦労した様子が窺えます。ちょうど大脳前頭葉の言語野周辺にできた腫瘍を取り除く手術だったため、その後もかなり長い間、話し言葉には苦労しました。

7月14日からは書籍の書き写しを始めました。ようやく字の形は何となく整ってきましたが、それでも字を書く作業は相当疲れが溜まる作業だったようです。一段落だけでギブアップしています。

7月15日の記録は3行だけしかありません。でも「今日の課題」「今日の目標」「今日の日課」を書いているので、それなりに元気を取り戻せていたのでしょう。

7月16日も書籍からの書き写しをしています。この頃になると「単語として捉える」「単語として書き写す」ことがある程度できるようになりました。それまで「文字として捉える」「文字として書き写す」ことしかできなかったのと比べると大きな進歩ですし、約1ページ分を埋めることにも成功しています。しかしこれが限界だったようです。

それよりもはるかに深刻だったのは言語聴覚士さんとの面談で気づいた、計算能力の喪失でした。足し算・引き算ができなくなっていたのです。できなくなるというよりも「頭に答えが浮かんでこない」と言った方が適切でしょうか。これは実にまずいことでした。

7月20日には算数の文章題そのものを書き写すという作業をしていましたので、その数日前のことでしょうけど「タクシー代は560円でした。1000円出したらお釣りはいくらですか。」というような簡単な問題が全く解けないことには愕然としました。言語聴覚士さんの話では「頭にそろばんを浮かべて計算するタイプの人にこういう症状が出がち」とのことでした。まさにその通りで、こういう計算を暗算する時には必ずそろばんを思い浮かべて計算していました。何しろそろばんが全く浮かんでこない…。

そういえば入院中に何度も言っていた口癖として思い出すのは「いや〜参った」です。言葉が出てこない!と思うたびにこう言っていたような気がします。まあ精神的には大丈夫でしたが。

7月19日〜7月21日は連休だったので外泊を選ぶ人ばかり。そのため病院内は閑散としていました。自分は、と言えば、言語産出にも計算能力の低下にも自信がなかったので、この週末は外泊しませんでした。

実は次の週末までには退院できると思っていましたので、26日に依頼されていた30分の招待講演もそのまま引き受けていましたし、翌週の授業最終回も2科目4コマのみは出講する段取りにしていました。結果的には退院が延期になり、お引き受けした講演は外泊扱いで出ざるを得ず、しかもグダグダな発表で酷い結果に終わり、主催者の先生方には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。その上、授業最終回にも出講することも叶わず、大番狂わせの大失態でした。全ては脳の手術を甘く見ていた自分の責任です。

脳の手術を甘く見ていた残念な自分の責任はもう一つあります。7月30日には退院し、翌31日には職場にも挨拶に行っていますが、既に出張申請していたAILA 2014(ブリスベン)への参加をキャンセルする決断をし、その旨をAILA事務局に連絡しました。これはとても残念なことでした。

さて、退院後の出来事も紹介しましょう。全然予想していなかったのですが、退院してみるといろいろ刺激が多く、すぐに疲れが出てしまい、全く無理が利かない状況に追い込まれてしまいました。そりゃそうですよね。

いつの間にか計算能力も当社従来比70%ぐらいのところまで復活したような気がします。まあ元のレベルが相当高めだったので、あまり苦労していません。そのうち完全に元通りになるでしょう。

でも残念なのは一度「てんかん」と診断されてしまうと最低2年間は車の運転ができないそうです。娘の塾への送迎アッシー君は当分無理ですね。

退院後、初めての外来診察として予約していたのはAILAから帰ってくるはずだった日の翌日で、8月18日でした。結局は参加しませんでしたし、それまでの間にも何度か弱い発作が起きていましたので、欲張ることもなかったのになあ…と反省しました。病理検査の結果は乏突起膠腫(ぼうとっきこうしゅ)という病名で、脳腫瘍の中でも悪性度が一番低いもので、当分は経過観察のみでよい(放射線治療も化学療法も要らない)ということを聞き、とても安心しました。しかし弱いながらも発作が起こるというのは良くないので、薬を「イーケプラ250mg」に変えて様子を見ることになりました。でも前の薬が残っている間は両方飲むよう指示がありました。

その後、しばらくはとても調子がよかったです。「今度の薬は合うなあ!」と思っていました。しかしそれは前の薬が切れるまでの間でした。

大きな発作が起こったのは8月22日の夜でした。「てんかん重積発作」という呼吸ができなくなるくらいの症状でした。人生4回目の救急車で西宮市内の病院に搬送されました。ちなみに「てんかん重積発作」という症状は、ものの本によると「時に死の転帰を取る」と書かれているくらいの危険な症状だったようです…後で知ったことですが。

それに当の本人はその時はそこまで深刻な症状だとは思っていませんでした。この時は家族全員が病院に来てくれましたが、小3の息子は泣きながら「大きくなったらお医者さんになる!」と言っていたそうです。この子が大きくなるまでは頑張らないといけないな!

8月24日の夜にも似た症状が起こり、このときは呼吸こそできていましたが、とても息苦しかった記憶があります。同じように救急車で搬送され、このときは1泊2日の入院を余儀なくされました。

翌8月25日にはすっかり元気になりました。たまたまこの日の午後に阪大病院の予約を入れていたので、移動時に発作が起こることがないように筋肉注射と点滴を打ってもらい、妻の運転する自家用車で阪大病院に向かいました。その日から前の薬の服用に加え、新しい薬も増量が決まり、今は「テグレトール200mg」と「イーケプラ500mg」を1錠ずつ、朝晩に服用しています。

その後さらに2週間が経過しました。順調ですが、朝晩にどうも薬が切れるような気がして、9月8日の外来診察を受けた時に、そのことを尋ねてみました。しかしこれはどうやら気のせいのようです。抗てんかん薬というものは3日ぐらいかけて徐々に血中濃度が下がっていくように作られているので、きちんと飲んでいる限り、たかだか12時間で切れるはずがないとのこと。

「病は気から」とはよく言ったものです。そのことを聞いてスッと楽になりました。このブログを書いている今日が9月9日ですが、今日は全く薬が切れるような感覚はありませんでした。

次の外来予約は10月27日。そんなに間をあけても大丈夫なんですね。

さて、だらだらと書いているうちにとても長くなってしまいました。今後どうなるか分かりませんが、とりあえず元気になりました。今週末からはいよいよ本格的に仕事復帰です。





いつも闘病に付き添ってくれている妻への「ありがとう」の気持ちを込めて。